コロナ禍で窮屈な思いをする子どもたちに向けて、レジェンドアスリートによるトークイベント『ぼくらのスポーツ』が8月に開催された。競泳・北島康介氏、柔道・野村忠宏氏、フェンシング・太田雄貴氏、ラグビー・大畑大介氏、バレーボール・竹下佳江氏といった各スポーツを代表するアスリートは、スポーツの今と未来について何を語ったのか?主催のHALF TIMEでは前後編にわたってその模様をお届けする。
未来のアスリートに対して、ボジティブなメッセージを
スポーツをする機会が失われている。これまで当たり前だと思っていた環境が奪われている。大人たちでさえ戸惑う状況において、子供たちの失望感はいかばかりのものか…。冒頭では、HALF TIMEの代表である磯田裕介から、今回のトークイベントの意義が説明された。
磯田裕介:HALF TIMEでは、スポーツビジネスにおける情報提供や転職支援などのサポートを、主にビジネスパーソン向けに行ってきた中、新型コロナウイルス感染拡大に伴って、多くのスポーツができなくなってしまっています。そこで、この現状を踏まえ、未来を創る子供たちに向けて、何かポジティブな機会を作りたいと思って「ぼくらのスポーツ」を開催しました。この想いに賛同して、日本でも屈指のレジェンドアスリートの方々が集まってくださいました。
トークセッションの司会は、フリーアナウンサーの平井理央氏。フジテレビ「すぽると!」をはじめ、多くのスポーツの現場での取材経験を持つ同氏の進行で、セッションがスタートした。
レジェンドたちは、幼少期からいかにしてスポーツと向き合ってきたか?
日本のスポーツは、学校の部活をベースとしてきた歴史がある。多くの子供たちが部活を通して初めてスポーツに触れ、練習を重ねてきた。部活が礼儀やマナーを学ぶ教育の場として機能してきたことに異論はないが、一方で極端な上下関係や高圧的な指導者の存在が問題となることもあった。しかし、そんな状況も、時代とともに変わりつつある。
平井理央氏(以下、平井):最初に伺いたいのは「スポーツと学校」です。みなさんは、子供のころ、どのようにスポーツと関わってきましたか?
北島康介氏(以下、北島):5歳から水泳を始めましたが、部活には入っていなくて、学校の友達とも遊んだ記憶はあまりありません。でも、親やコーチと話し合いながら、学業と水泳を両立してきましたね。早朝に起きて練習、学校にいってまた午後から練習という日々で、ずっと水泳漬けでしたね。
野村忠宏氏(以下、野村):イヤにならなかった?
北島:なりましたよ(笑)。でも、大会を通じて全国のライバルたちと友達になれたのは、楽しかったですね。
大畑大介氏(以下、大畑):子供の頃から自分が秀でていると思っていた?
北島:中学3年で初めて全国でトップに立ったんですが、それまでは自分が優れているなんて思えなかったですね。
オリンピック3連覇という偉業を成し遂げ、「天才」の名をほしいままにしてきたと思われてきたレジェンド、野村忠宏氏も、その幼少期にはさまざまなスポーツに親しんだという。
平井:野村さんはどのような学生時代だったんですか?
野村:実家には道場があって、いわゆる柔道一家に生まれて3歳から始めています。しかし、親の考えもあって、好きなことをさせてもらっていました。2歳から水泳をしていましたし、部活はサッカー部に入っていました。地域のクラブで少年野球もしていました。チームスポーツも経験した上で、自分は個人競技に向いているとわかったんです。しかも、記録を競うスポーツではなく、勝負スポーツがいいと。それで、中学からは柔道に専念しました。そこからは、強くなるために、楽しさよりも厳しさを追求していきましたね。
ラグビーW杯に2度出場。日本代表として69トライをあげ、代表試合トライ数世界記録を持つラグビー界の元祖スピードスターは、自らの足で「自分の居場所作り」のスタートを切る。
平井:大畑さんは、どのようなきっかけでラグビーを始めたのですか?
大畑:小学3年から始めたんですが、ラグビー少年っていうとヤンチャなイメージがあるかもしれないですけど、ホント泣き虫だったんです。地元大阪の少年はみんなタイガースファンだったんだけど、おんなじなのはイヤだなって思っていて。 ラグビーは父親がプレーしていたこともあり習い始めたのですが、初めての練習では自分が一番足が速かったんで注目されたんですね。それで「自分だけの居場所」を見つけたと感じました。
2012年のロンドンオリンピックで28年振りとなる銅メダルを獲得。世界の高さと戦い続けた「世界最小・最強セッター」は、バレーボールという競技の本質を、みんなで取る1点の楽しさだという。
平井:竹下さんは、バレーボールとどのような出会いをされたんですか?
竹下佳江氏(以下、竹下):姉の影響で、小学2年からバレーボールを始めました。バレーって厳しいイメージがありますよね。たしかに理不尽な経験もしましたよ(笑)。中学時代は勝ちにこだわって一生懸命プレーしましたが、身長のカベに突き当たりました。でも、バレーボールはボールをつないでみんなで1点を取る喜びが、何よりの魅力だと思っています。
平井:母親として、お子さんにもバレーボールをプレーしてほしいと思いますか?
竹下:自分はバレーしか知らないできました。他の競技の方たちと交流したりということがなかったんですね。子供たちには、いろんな経験をして、自分のやりたいことを見つけてもらいたいなと思います。
日本初の銀メダルをフェンシング界にもたらした革命児は、小学生の時点で、自分はこれしかないと悟ったという。「太田さんは学生時代を振り返っていかがですか?」と水を向けられると、次のように話した。
太田雄貴氏(以下、太田):小学3年のとき、ゲーム機を買ってやるからフェンシングやれって父親にいわれたんです(笑)。始めたばかりだったけど、出身の滋賀県の小学生チャンピオンでした。なぜって、自分しかプレーヤーがいなかったんで。地元は小さな町だったんですけど、一歩外に出るとすごい人たちがたくさんいるんですね。それで、自分が一番を取れる場所はどこなんだと考えて、小学5年からフェンシングに絞りました。
世界で活躍したトッププレーヤーは、いつ「世界」を意識したのか?
多くのスポーツにおいて、世界を目指すということが当たり前になりつつある。世界のレベルと歴然とした差のあった競技でさえ、強化策次第では驚くべき成果を残すことができることは、私たちが証人として目の当たりにしているところだ。
平井:「世界を目指すトッププレイヤー」についてお聞きします。みなさんは競技の中でトッププレイヤーであったわけですが、上を目指すにはどのような心構えが必要なのでしょうか?野村さんは「天才」と呼ばれていましたが…。
野村:いや、オリンピックで勝ってから「天才」と呼ばれるようになったんですよ(笑)。子供の頃はぜんぜん強くなくて、柔道一家で育ったくせに…と冷ややかな目を向けられていました。近くにいるライバルに勝とうという意識くらいしかなくて、地域のチャンピオンがせいぜいという感じでした。でも、「何のために柔道をやっているのか?」と問いかけてくれる先生がいたんです。「自分はどうなりたいのか?」と自問自答することで、意識が変わりましたね。上を目指すなら、挫折も苦しみも受け入れなくてはなりません。努力をして当たり前の世界なので、主体性を持った練習をしなくてはなりません。同じ練習でも、意識次第で結果は大きく変わってきます。
平井:そこから世界までは早かったですよね。
野村: 大学に入ってから伸びましたね。努力の積み重ねがいつ結果に結びつくかは分からないものだと思います。私の場合は、体ができ上がってきたことで、それまで磨き続けてきた技術が活かせるようになりました。努力の点と点が線となって結びついたんだと思います。
北島:僕は、オリンピックは「スゴイな!かっこいいな!」と、見ていましたね。プロ野球など、“魅せる”スポーツにも憧れていました。水泳は個人競技で記録と向き合うスポーツですが、勝つことで自信をつけていくという側面もあります。 中学3年のときに日本一になったことで、オリンピックが夢から目標に変わっていきましたね。
国内でのライバルとの戦い、そして大会で勝つという積み重ねから、さらに上を目指すこととなった野村氏と北島氏。一方でフェンシングは、柔道や競泳という日本におけるメジャースポーツに対し、また違った状況だったようだ。しかし、それが太田雄貴という稀有な才能が育っていくきっかけとなった。
太田:フェンシングは競技の世界が狭いので、小学5年のときにオリンピアンの選手と対戦する機会があったんです。そのときのインパクトがすごかったですね。本当に剣が見えなくて、「こんなに違うのか!」と衝撃を受けました。中学3年のときには海外での対戦も経験しましたが、私は身長160cm、同世代の海外選手は180cmもあって、「相当努力しないと勝てないな」と感じました。その後は、国内の大会に出ていても、世界の敵を想定したりして戦っていました。
さらに、世界最高峰の舞台であるオリンピックにおいても、その競技レベル、その意識の高さに衝撃を受ける。同氏は、2004年のアテネオリンピックを振り返る。
太田:オリンピックはアテネ大会に初めて出たんですが、2回戦負けでした。決勝を観戦しましたが、自分とは違うスポーツなんじゃないかというほどレベルが高かったんです。まるで、エベレストを登りにきたのに、近所を散歩するような軽装できちゃったようで、恥ずかしい気持ちになりました。そのときに、野村先輩や北島先輩が活躍する姿を見て、オリンピックは出るものではなく、メダルを獲るものだと理解しましたよ。メダルを獲らないと、世間には認知してもらえないんだということもわかりました。
「英雄は英雄を知る」 他競技も刺激に
「竹下さんは苦労されたことはありますか?」と司会から聞かれると、竹下氏は思い出を振り返った。アスリートが語るべきなのはフィールド上でなのか?メディアでなのか?聞く側と聞かれる側の本音が漏れる。
竹下:あきらめの悪さが努力をさせてくれたんじゃないかと思っています。身長は159cmで止まってしまったんですけど、高校2年のときに世界ユースで金メダルを獲れたことで世界を意識するようになりましたね。もちろん日本代表になってからは世界と戦う日々でした。あまりメディアが得意ではなかったので、表に出して語ることはなかったんですけど、「自分がやってやる!」とか「バレーをもっと人気スポーツに!」という意識でやっていたんです。
平井: とてもストイックな選手だったので、特に試合前は「目の前の試合を頑張るだけです」という以上のコメントを中々引き出せなかったですね。内にある想いを、インタビューでお聞きしたかったです!
竹下:今考えると、自分はメディア泣かせだったなと思います(笑)。
柔道、競泳、フェンシング、バレーボールと比べ、長らくオリンピック種目ではなかったラグビー(※現在は7人制ラグビーが種目となっている)。2019年、日本で初開催されたラグビーW杯で盛り上がりを見せたが、国際舞台では永らく世界との距離が縮まらなかった。
大畑:私は今日のメンバーの中で唯一オリンピアンじゃないんだけど、ラグビーを始めた頃は、ワールドカップもなかったし、世界とのつながりなんてなかったですね。自分にとってのヒーローは、松尾雄治さんでした。プレーはもちろんだけど、愛されるキャラクターもあって、世間の注目を集められる存在ですね。
世界を意識するのは、何も同じ競技のプレーヤーとは限らない。大畑氏は次のように続ける。
大畑:私は中学生のころにオスグッドで走れない時期があったんですけど、自分にはラグビーしかなかったから、その居場所をなくしたくなかったんです。高校はあえて強豪校ではないところに進学して、みんなが練習終えたあとに自主練で脚力を鍛え続けました。すると、チームでレギュラーになって、チームも強くなって全国に行けたんです。さらに日本代表に選ばれたんですが、補欠でした。
(※オスグッド=成長期の小中学生の男子に多い膝の痛み。代表的なスポーツ障害)
大畑:その悔しさを持ちながら大学に進学してラグビーを続けていたんですが、1つ上の学年のある柔道家がオリンピックで金メダルを獲ったんです。同じ関西の大学で、すぐ近くにいる人が頂点を極めたのを見て、自分も「ああなりたい!」と思ったんですね。
なにを隠そう、この「同じ関西の大学の1学年上の柔道家」は、野村忠宏氏に他ならない。トッププレイヤーは、他競技にも影響を与えているという証左でもある。
スポーツが持つ価値と、その未来とは?
新型コロナウイルスの拡大により、スポーツを取り巻く環境は今まで以上に速いスピードで変わっている。それに伴って、スポーツそのものも変わっていくことが求められている。
平井:最後に、「スポーツの価値と未来」についても伺いたいのですが、みなさんはスポーツを通してどんなものを得てきましたか?また、これからスポーツに取り組んでいく子供たちに、その将来について語っていただけますでしょうか?
北島:33歳まで競泳選手を続けさせていただきましたが、大きなものを得ましたね。ただし、これからのスポーツは大きく変わっていくと思っています。「がんばれば世界に行ける」と伝えるだけでなく、選手のセカンドキャリアについてや、社会人になってもスポーツを続けていける環境を整えていくことなども大事だと考えています。以前は、他の競技の人と話すこともなかったですけど、より広く、子供からお年寄りまで楽しめるという水泳の魅力を伝えていかなくてはいけないなと。
太田:フェンシング協会のスローガンは「突け、心を。」としていて、見ている人に感動を与えられる競技を目指していますが、選手にとっては、目の前の試合に勝つことも大事です。結果にこだわることで、説得力が備わるということもあるんですね。試合を通して得られた戦略性は、実社会のビジネスにも活かせるはずです。
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レジェンドアスリートたちが、競技に出会った幼少期のエピソードから現役中の苦悩まで、ありのままを赤裸々に語ってくれた。結果を残してきたトッププレーヤーでさえ、悩み、苦しみ、戦ってきたということがわかる。ただし、共通していえるのは、そのときにしっかりと考えて前に進んでいるということだ。もちろん、周囲の人たち指導もあっただろうが、自らが考え、それを実行していく力が備わっていたからこそ、トップアスリートになれたということがわかる。
『ぼくらのスポーツ』開催レポート後編では、視聴者からの質問にレジェンドたちが直接答えた、質問タイムの様子をお届けする。