アーセナルFCアジア責任者が語る、ファンの心を世界中で掴むための「エンゲージメント」戦略

グローバル化するスポーツビジネスで近年目覚しい、欧州サッカークラブによるアジア進出。特に英プレミアリーグの各クラブは本国を離れても凌ぎを削り、名門アーセナルFCもその例に漏れない。4月28日に開催される『HALF TIMEカンファレンス2020』に先駆けて、APACオフィスを率いるハドリアン・ぺラッツィーニ氏に、アーセナルがアジアそして日本で展開してきたマーケティング戦略と、新たなファンエンゲージメントを聞いた。

日本からインドまで網羅するAPACマーケット

アーセナルFCはアジア展開を積極的に進めている。画像提供=アーセナルFC

イギリスの首都ロンドンに本拠地を構え、英プレミアリーグに所属する名門アーセナルFC。クラブがシンガポールにAPACオフィスを設けたのは2017年で、以降サービスの拡充と事業の拡大を試みてきた。この組織をディレクターとして率いるのがハドリアン・ペラッツィーニ氏である。そもそも氏はいかなる経緯で、重責を担うようになったのか。

「私はローザンヌの大学で経営学を学んだ後、スポーツ業界で歩んできました。様々なステークホルダー(関連企業)や国際機関に17年間勤務してからアーセナルに携わり、ロンドンの本社に1年半勤務してから、現職に就いたという流れですね。

私が担っている業務は、主に2つあります。1つ目は各国の企業(ブランド)と連携しながら、アジア太平洋地域でパートナーシップを結んでいくこと。2つ目は様々な形で、ファンエンゲージメントを展開していくことです。これらの業務には多岐にわたりますが、アジア太平洋地域全域とロンドンを結ぶ架け橋を築いていく仕事だと言えると思います」

ちなみにシンガポールオフィスが管轄しているエリアには、日本や中国、韓国などの北部アジア諸国、シンガポールなどの東南アジア諸国だけでなく、オーストラリアやインドまで含まれる。その意味では、日本人が一般的にイメージする「アジア」よりも、はるかに広い地域を担当していることになる。

「アーセナルはインドとオーストラリアでも、多くのファンを抱えていますから。インドでは、クリケットが国技のような存在になってきた。しかしFacebookを始めとするSNSでアーセナルをフォローしている人々の数は、クリケットのプレミアリーグに所属するチームに匹敵するようなレベルを誇っているんです。

これはオーストラリアも然りで。例えば2017年の夏にツアーを行った際には、シドニーにあるスタジアムで2度ほどフレンドリーマッチが開催されましたが、試合のチケットはツアーが行われる半年前には既に売り切れていたほどです」

イングランドのサッカークラブは、昔からアジア全域で高い人気を誇っていた。とは言えかくも高い人気を誇っているのは、クラブチーム側が積極的に新たなファンの開拓や、ファンエンゲージメントの充実に力を入れてきたからに他ならない。氏はその理由を、次のように解説する。

「まず指摘できるのは、アジア全域が大きな可能性を秘めている点でしょうね。このエリアには巨大なファンベースが存在するだけでなく、経済的に目覚ましい発展を続けています。しかも、いずれの国のファンもサッカーに対する関心や欲求が非常に高く、自分が応援するクラブへの忠誠心や愛情が強い。結果、サッカー関連のコンテンツに対する需要も、急速に拡大してきました。これはクラブ側にとって、きわめて魅力的なマーケットであることを示唆しています」

アジアの「目に見えぬ壁」をいかに乗り越えていくか

アーセナルはアジアでも大きなファンベースを持つ。画像提供=アーセナルFC

ただし氏はアジア市場が持つ独特の難しさ、「目に見えぬ壁」の存在を指摘するのも忘れなかった。

「文化や言語などの観点から見た場合、アジア地域は多様で断片化しているだけでなく、ニーズが変化していくスピードも速い。このため画一的なアプローチを取るのではなく、国やマーケットごとに戦略を細かく差別化していかなければならない。アジア地域はハードルが高いと言われる所以でしょうね。

しかし私たちは、このような特徴を前向きに捉えています。文化的な壁をうまく乗り超えていければ、地域全体が持つポテンシャルをフルに引き出せるからです。むしろ開拓しがいのある、非常に興味深いマーケットだと考えています。私たちがシンガポールに拠点を設けた理由もそこにあります。

各地域のファンはアーセナルに何を期待し、何を求めているのか。毎日の生活の中でどんなふうにサッカーに接し、どのようにコンテンツを消費しているのか。そして様々なパートナー(企業)といかに連携していけば、パートナーにとってもファンにとっても真に実りあるコラボレーションを展開していけるのか。これらのテーマを正しく把握し、具体的なビジネスプランに落とし込んでいくためには、じっくり時間をかけながらリサーチや対話を重ねていくことが不可欠になりますから」

APAC拠点のシンガポールではFan Partyを開催してきた。画像提供=アーセナルFC

ならば、どのような方策が必要になるのか。心がけているのは「グローカル:グローバル+ローカル」なアプローチで、ファンとの「距離感」を縮めていく試みだという。

「もちろん我々はグローバルなレベルで、一貫性のある活動を展開していかなければならない。ただしアジア地域においては、先程述べたような文化や国民性、あるいは地理的な隔たりと行った「ローカル」な要素も踏まえた上で、オペレーションを展開していくことが求められています。

一例を挙げましょう。アーセナルのファンは、アジア地域でもクラブに対する忠誠心が非常に強いことで知られています。しかしアジアとヨーロッパは物理的に離れているため、アジアのファンの大多数は、なかなかエミレーツ・スタジアムまで足を運ぶことができない。

だからこそ我々は、その距離感を感じさせないための工夫をしていく必要がある。大阪であれマニラであれ、あるいはシドニーであれムンバイであれ、アジア全域にいるファンの方がロンドンにいるファンと同じように、アーセナルというクラブを身近に感じられるような環境を創り出し、エンゲージメントを高めていくことが求められています。

では、どうすればエンゲージメントを高めていけるのか。その有効な手段となるのが、良質なコンテンツの提供です。我々は先進的なデジタル技術と様々なプラットフォームやSNSなどを駆使しながら、最適なコンテンツを最適な形で、しかも最適なタイミングで提供し、ファンとの距離感を縮めていかなければならない。事実、我々はシンガポールの拠点以外に、上海にクリエイティブなどの制作チームを設けています。このチームには現在7人のスタッフが常勤し、マーケティング用のデジタルコンテンツ制作、SNSによる情報発信、ファンクラブの会員向けプログラム、そして中国におけるオフラインイベントの企画などを担当していますが、それをさらに数多くのクリエイターが支える形になっている。

また一体感を醸成していくためには、このようなバーチャルな体験だけでなく、ツアーも重要になります。例えば2018年のアジアツアーでシンガポールを訪れた際には、フレンドリーマッチを行っただけでなく、チームの主力選手がしばらく滞在。現地のパートナーと密接に連携しながら、様々なアクティビティやファンフェスティバルなどに参加している。これはより多くのファンに、さらに幅広い形でアーセナルを身近に感じてもらう貴重な機会になりました」

名門アーセナルだけが提示し得る、唯一無二の価値とは

本拠地エミレーツ・スタジアムはアイコニックな存在になっている。画像提供=アーセナルFC

ただし、これらの試みはあくまでも「手段」に過ぎない。ファンエンゲージメントを高めていく際に最も重要になるのは、様々な形で共有されていく「バリュー(価値観)」だからだ。ではアーセナルだけが持ち得る価値とはいかなるものなのか。

「まず挙げられるのは、アーセナルファンとしての『誇り』です。ロンドン北部だけでなく、文字通り世界中にいる様々なファンが、アーセナルというクラブのファミリー(一員)に名を連ねることに誇りを感じ、プライドを持てるようにしていかなければならない。これは我々の活動にとって最大の目標になっています。

ファンに誇りを感じてもらうためには、攻撃的でエキサイティングなサッカーを実践して、トロフィーを獲得し続けることが求められる。プレーの内容においても結果においてもファンの期待に応えていくのは、サッカークラブにとって根本的な使命でもあると言えるでしょう。

ただしクラブの誇りというものは、実際的な運営を通しても創り出されていきます。国籍や人種、文化などの違いを超えて、世界中の人々を家族の一員として迎え入れるインクルーシブな環境を維持しながら、地域コミュニティに貢献する。そして地域や社会と共に、サステイナブル(持続可能)な発展を目指していく。これが『アーセナル・ウェイ(アーセナルの流儀)』と呼ばれる、組織運営の方針です。

アーセナルは創設以来、このポリシーを約130年間、一貫して追い求めてきました。名門に相応しい運営を貫き、クラブが受け継いできたDNAを次世代にしっかり伝えていく。それができて初めて、ファンの皆さんにも誇りを感じていただけるようになるんです」

創設以来クラブが受け継いできたバリューを軸に、APAC地域のファンとパートナー企業、そして地域コミュニティとの距離感を縮めていく。アーセナルのAPACディレクターであるペラッツィーニ氏は、こう戦略を語る。次回は、その戦略をどのようにアクションに落とし込み、特に日本のファンの心を掴もうと試みてきたか、引き続き伺う。


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