引退後の人生であるセカンドキャリアから、現役中に複数の仕事に携わるデュアルキャリアまで、近年多様化するアスリートキャリア。HALF TIMEでは、その最前線に迫る新たな連載を開始します。第1回は、元フィギュアスケート選手で、現在は振付師(コリオグラファー)として米ラスベガスを拠点に活動する村主章枝(すぐり・ふみえ)さん。冬季オリンピック2大会で入賞を果たしたあと振付師として活躍するまで、そしてこの先の展望についても伺いました。
振付師を目指したきっかけは、ローリー・ニコル氏
冬季オリンピックの花形種目の一つ、フィギュアスケートのシングルで、日本を代表する選手として活躍した村主章枝さん。女優さながらの「表現力」で、氷上で華麗に舞った姿を覚えている人も多いのではないだろうか?
村主さんは2002年ソルトレイクシティ大会で5位、2006年のトリノ大会では4位と2大会連続、オリンピックで入賞する活躍をし、引退後の現在はアメリカのラスベガスに住みながら、コーチや振付師と(コリオグラファー)して主に10歳から17歳の子どもたちを指導している。村主さんはなぜ、引退後のキャリアとして振付師を選んだのか。
その名の通り、演技の振り付けを担当する振付師は、コーチや選手からの依頼を受けて、演技のテーマを決め、表現や演技構成を作り上げる。観衆や採点に世界観が伝わるように練り上げ、単なるプログラムを作品に変える。さらに、演技構成で使用する音楽や選手の衣装も選ぶ。
いくらジャンプの技術が高くても、振り付けが合わないと、試合での得点評価は伸び悩む。例えるならば、味は美味しくても見た目が不味そうなケーキのようなもの。それほど振付師は重要な存在となる。
村主さんにとって振付師という仕事は、10代の頃からの夢だった。
「私の振り付けを指導したローリー・ニコルさんがきっかけです。16歳の時に出会い、『わたしはこの人みたいな素晴らしい振り付けのできるスケーターになりたい』というのが始まりでした」
ローリー・ニコル氏は、数多くのオリンピックメダリストたちを担当してきた、フィギュアスケート界でも有名な振付師だ。
ニコル氏のもとで、村主さんは表現力を磨き上げていた。そして、男子同様に女子も難易度の高いジャンプが求められていた当時、決してジャンプが得意とはいえない村主さんは、その「表現力」を武器に国際大会で活躍。特にトリノ大会での演技は観衆を魅了した。惜しくも順位は4位だったが人々の記憶に残る名演技だった。
トリノ大会が終わった当時、村主さんは25歳。選手年齢が平均的に若いフィギュアスケートの世界では、引退をしてもおかしくない年齢だったが選手生活を続けた。
「オリンピックでの悔いがあり、もう一度出たいと現役を続けました。でも、大きなゴールはそこではなく、振付師になって成功したいというのがありました。(トリノの後)すぐに引退して振付師の道に進んでも良かったかもしれませんが、何より自分の技術が足りない、まず作品をこなさないと振付師として指導できないと思い、現役を続けました」
そこから2014年まで選手を続け、33歳で引退した。フィギュアスケートの選手がこの年齢まで現役を続けるのは、異例中の異例だ。
「長く現役だったのは、下手だったからでしょうか。性格的なところもあると思います。すぐに(思うような演技が)できていたら、やめていたかもしれない。全然できないから続けていたというのはあります。良い意味でも悪い意味でも、諦めが悪い」
ふふふっと笑いながら振り返った。一方で、選手引退後に向けた準備は、自然と積み重ねていった。
「(現役生活の終盤)2013年くらいから、ローリー・ニコル先生のところに来ている選手の手伝いをすることがあり、そこから振り付けをしてほしいという依頼をされるようになりました。日本では指導しながら競技を続けられない。指導者か選手かどちらかという選択になったのと、全日本選手権の予選である東日本大会で敗れていたこともあり、そろそろ引退なのかなと思いました」
引退後も引き続きニコル氏のもとで振り付けを学ぶため、カナダへ移住した。
「(選手の時から)振付師になる準備や訓練はずっとしてきました。振付師の仕事は、演技のコンセプト、衣装のデザイン、選曲とトータルで考えないといけない。どういったプロセス、どういった思考で行うのか、ローリーさんの作業を見ながら、学ぶことができました」
映像制作会社をアメリカで起業。短編映画が受賞の快挙
2018年からはアメリカへ拠点を移した。ラスベガスを拠点にしながら各地でユース世代のフィギュアスケートの選手たちを指導したり、振り付けを行っている。そして、新たなチャレンジも始めた。映像・映画の制作会社をアメリカで立ち上げたのだ。これも自身の夢のためだ。
「振り付けの仕事をする夢の先に、アイススケートのショーをしたいという夢をもともと持っていました。ショーを作り上げるためには映像が必要で、こういった話をアメリカでしたところ、仲間が集まってくれて会社を設立しようとなりました。(アイススケートのショーとは)形は違えど、作品を作ることに違いはありません」
2019年4月に近年米国で問題になっている人身売買をテーマにした作品、6月に性の問題をテーマにした作品、8月にはエジプトの女王シバの息子を題材にした歴史ファンタジーの映画「Son of Sheba」を制作した。いずれも20〜25分の作品だという。
「映画を作ろうよと言って始めましたが、こんなに映画の世界が大変だとは思いませんでした(苦笑)。ただ、3つ目の歴史ファンタジーは評価をして頂き、(映画祭で)いくつか賞を取ることができました」
監督としてメガホンを取ったんですかと尋ねると、「私自身は映画監督はできないので、ただのアシスタントですかね(笑)」と謙遜する。しかしゼロから作品を作り上げ、それが好評価を受けて配給会社と交渉する機会も経験した。今後も映画制作は続けていくという。
「スケート以上に色んな面で難しいですが、チームワークなど伸ばせる部分がたくさんある。我々が成長して、いずれは長編も作れるようにしたいですね」
2014年から海外で生活しているが、日本には定期的に帰国し、テレビのバラエティ番組などに出演したり、ショーに関わる。TBS系『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』の社交ダンス企画への参加は、大きな話題を呼んだ
2020年は新型コロナウイルスの影響が仕事に及んだが、一方で旅行会社が企画した大人向けのオンライン・フィギュアスケート教室講座をする機会が生まれ、「仕事の幅が拡がった」という。
突如高まったフィギュア人気も背中を後押し
フィギュアスケートの選手達も他競技のアスリートと同じく、引退後のキャリアは決して安泰ではない。指導者や解説者として引き続き関わり、生活していくだけのお金を稼げるのは一部だけ。村主さんはフィギュアスケート以外の仕事の可能性について考えることはなかったが、タイミングに関しては競技人気の恩恵を受けたという。
「私はスケートのことが好きだったので、他の職業の可能性については考えていませんでした。私が15歳の時、今ほどフィギュアスケートは盛んではなかった。将来振付師になるという夢に対し、両親は私には違う道に進んで欲しいという考えを持っていました。学業もちゃんとして、学校を卒業してほしいと。強制はしませんでしたけどね。ところが、2002年から2006年の間にフィギュアスケートが急激に盛り上がったことで、両親も『その道に進みたいならいいよ』となりました」
当時は浅田真央さんや安藤美姫さんなどが登場した頃で、マスコミでフィギュアスケートの選手や試合が取り上げられる機会が一気に増えていった。試合会場を訪れる人が、急増したのもこの頃。アイススケート教室に通う子どもたちも増えていった。世間における競技の人気や認知度は、親として、子どもが職業を選ぶ上では安心させる要素になったのだろう。
選手引退後も、一歩ずつ夢に向かってまい進している村主さんだが、今まさに岐路に立っているという。
「(映画制作という)大規模なものにぶち当たり、自分の持っていた能力では乗り越えられないからどうしようかなと悩んでいます。もっともっと、お金を動かさないといけないし、フィギュアスケート以上に人も多く動かさないといけません。改めて勉強しないといけない」
ただ、映画の仕事をメインにするという意味ではない。あくまで目指すは振付師としての活躍だ。
「人生の大きなテーマは、スケートを始めた時から変わりません。それは、良い作品を作ること。選手の時は良い作品を踊って、皆さんに見て頂き、元気をもらった、感動したと言われるものを滑ろうとしてきました。振付師になっても、映画でも、良い作品を作って喜んでもらいたい」
16歳で見つけた“将来の仕事”振付師。村主さんはぶれることなく自分の信念を貫き、今も夢に向かって前に進んでいる。
◇村主章枝(すぐり・ふみえ)
1980年12月31日、神奈川県出身。アメリカ・アラスカで幼少期を過ごしたことから冬季スポーツに親しみ、帰国後6歳からフィギュアスケートを始める。冬季オリンピックに2度出場し2002年ソルトレイクシティ大会5位、2006年トリノ大会4位と2大会連続で入賞。2014年に現役引退後は、アメリカ・ラスベガスを拠点にコーチ、振付師(コリオグラファー)として活躍する一方、映画・映像制作を手がけるMonkeY Teer Entertainmentを2019年に設立。