柔道は「講道館」という1つの流派にまとまっていますが、「空手」にはさまざまな「流派」があります。
空手は、流派ごとに「試合ルール」や「鍛錬方法」「技」などが大きく異なります。そのため、空手を習うつもりなら、流派の特徴を知っていないと、イメージと違う流派に入門してしまうかもしれません。
この記事では、現在の空手の大きな流れである「伝統派空手」と「実践派空手」について説明しています。また、空手の4大流派についても、それぞれ解説していきます。
空手の流派について
「空手」は、琉球王国の戦士階級の人々が習っていた「手(ティー)」が源流となっている武術です。琉球王国では、琉球の伝統的な武術を「沖縄手(もしくは単に手)」と呼び、中国から伝来した中国武術を「唐手(とうで)」と呼んでいました。
琉球王国は、1879年に明治政府によって「沖縄県」として、大日本帝国に併合されました。その後、沖縄県からさまざまな文化と共に、「手」も日本本土に伝わりました。
沖縄から伝わったのは、沖縄手でした。しかし名称としては、唐手が空手に変化して使われるようになりました。
空手の系統は2つに大別できる
現代の空手は、「伝統派空手」と「実践派空手」の2種類に大別できます。
伝統派空手は名前の通り、古くから伝わる空手の本質を追い求める流派のことを言います。多くの伝統派空手では、試合の時に直接的な打撃を行わない「寸止めルール」を採用しています。
また、伝統派空手は、空手の競技化を推進して、世界的なスポーツにしようと志す「全空連空手」と、スポーツ化を目指さず、型稽古などを重視する「古流空手」の2つにさらに分けられます。
実践派空手は、試合で直接的な打撃を行う流派で、一般的に「フルコンタクト空手」と呼ばれています。
実践派空手は、防具を付けない代わりに顔面への攻撃を禁じている流派もあれば、防具着用で顔面攻撃も有りにしている流派もあります。
松涛館流
「松濤館流(しょうとうかんりゅう)」は、空手の4大流派の1つです。近代空手の普及に大きな功績を残した船越義珍(ふなこしぎちん)氏を開祖としています。
ただし船越氏自身は、自分がやっている空手が、松濤館流だと名乗ったことは一度もありません。
船越氏の空手を受け継いだものたちが、他の空手と区別するために便宜的に付けた名前が松濤館流空手です。なお、松濤館流の「松濤」は、船越氏の雅号から来ています。
松濤館流の影響
船越氏は、体育の授業で空手が取り入れられるよう普及活動に努めました。そのおかげで、日本全国に松濤館流空手が広まっています。
また、船越氏の後継者たちも、早くから空手指導者を世界各地に送って、空手の普及に努めました。そのかいあって、現在では空手の全流派の中で、世界でもっとも門弟の数が多い流派となっています。
また、韓国の国技である「テコンドー」にも、松濤館流は大きな関わりを持っています。テコンドーの基礎を作った李元国(イ・ウォングク)氏、盧秉直(ノ・ピョンジク)氏らは、日本留学中に松濤館で、船越氏に師事しています。
李元国氏がやっていた「青涛館」の分館である「吾道館」の館長崔泓熙(チェ・ホンヒ)氏が、韓国の武道の名称統合を提唱し、テコンドーという名を付けました。
剛柔流
「剛柔流」も4大流派の1つで、宮城 長順(みやぎちょうじゅん)氏が開祖となっています。
宮城氏は、沖縄で「東恩納寛量(ひがおんな かんりょう)」から習った技術に、自分自身が中国に渡って学んだ中国武術を加えて、剛柔流の技術体系を作り上げました。
剛柔流の名称は、宮城氏自らが命名したもので、中国の「武備誌」の中にある1節「法剛柔呑吐(法は剛柔を呑吐する)」から着想を得たものです。
剛柔流の型
剛柔流の型は、「基本型」「開手型」「閉手型」の3つに大別できます。
基本型には、「三戦(サンチン)」があります。これは、剛柔流を行うための正しい姿勢や呼吸法を学ぶための、鍛錬用の型です。
開手型には、「最破(サイファ)」「制引鎮(セイユンチン)」「三十六手(サンセールー)」「四向鎮(シソウチン)」「十八手(セーパイ)」「十三手(セーサン)」「久留頓破(クルルンファ)」「壱百零八手(スーパーリンペイ)」「撃砕第一(ゲキサイダイイチ)」「撃砕第二(ゲキサイダイニ)」があります。
閉手型には、中国拳法「白鶴拳」をもとに考案された「転掌(テンショウ)」があります。転掌は、三戦と同様に身体と呼吸を鍛えるための型として作られました。
糸東流
「糸東流(しとうりゅう)」も4大流派の1つで、摩文仁賢和(まぶにけんわ)氏によって開かれました。
摩文仁氏は、14歳のころから「糸洲安恒(いとすあんこう)」に首里手を学び、その後19歳から東恩納寛量氏から那覇手を学びました。
沖縄での「手」は、伝承されている地域によって「首里手」「泊手」「那覇手」の3つに分けられます。厳密な区別があったわけではないのですが、技術や鍛錬方法などにある程度の地域差がありました。
糸東流という名称は、糸洲安恒氏と東恩納寛量氏という二人の恩師から、名前の最初の1字をそれぞれ貰い受けて付けられました。
ただし摩文仁氏は、二人の師匠の空手以外にも、沖縄中の空手を学び、さらには本土の柔術をも学んでいます。
糸東流の特徴
糸東流は、摩文仁氏が首里手、那覇手、柔術など数多くの武術を学んだ末に体系化された空手です。そのため、型の種類が非常に豊富で、4大流派で1番多くの型を持っています。
また、型だけでない、技の種類も多彩です。空手というと、パンチとキックしかないと思っている人もいるかもしれませが、糸東流には「投げ技」も「関節技」もあります。
そもそも本来の沖縄手は、投げ技や関節技も含んだ総合武術です。そこから、スポーツとして授業で教える際に、柔道と差別化するために、投げ技や関節技や危険な技が取り除かれて、今日よく知られているような空手になっていきました。
そういった意味で、糸東流はより古い沖縄手を伝えている流派だと言えるかもしれません。
和道流
空手の4大流派最後の1つである「和道流」は、大塚博紀氏が開祖です。
大塚氏は、子供のころから「神道揚心流柔術」を学んでいます。その後、松濤館流の開祖船越義珍氏から空手を学びました。さらには糸東流開祖の摩文仁賢和氏からも指導を受けています。
大塚氏は、格闘術だけでなく剣術にも興味を示し、「柳生神影流」「富田流小太刀」なども学び、和道流空手に技術を取り入れています。
和道流の特徴
和道流以外の4大流派は、すべて開祖が沖縄の出身者です。そのため、沖縄手と唐手の影響を強く受けています。
しかし和道流の大塚氏は、茨城県出身です。彼は最初に柔術家として修行を積み、後に空手に出会って和道流を作り上げたため、和道流には、柔術のエッセンスが強く入っています。
柔術から取り入れられた技法として、「居補」「短刀捕」「太刀補」などが存在します。
居補は、座った状態でおこなう「形」です。これは日本独特の技術で、侍が座っている時に襲われた場合に対応するために生まれました。もちろん、投げ技や関節技も和道流の技術体系に含まれています。
なお、和道流においては「型」ではなく、「形」と表記します。理由は、「鋳型ではなく生きた形を打たねばならない」から、とのことです。
まとめ
空手は、沖縄で継承されてきた「沖縄手」が、日本本土で広まったものです。
空手を大別すると、「伝統派空手」と「実践派空手」の2つに分けられます。そして、両者それぞれに無数の流派が創設されています。
伝統流派には、「松濤館流」「剛柔流」「糸東流」「和道流」があり、空手の4大流派です。
「松濤館流」は、動きのダイナミックさが、「剛柔流」は、ゆっくりと力強く円を描くような動きが、「糸東流」は、技と型の多彩さが、「和道流」は、日本古武術の影響を受けた技法が、それぞれ特徴となっています。
(TOP写真提供 = Thao Le Hoang / Unsplash.com)
《参考記事一覧》
和道流とは (ワドウリュウとは) [単語記事] - (ニコニコ大百科)
相模原 空手道場 NPO法人沖縄空手道剛柔流東魁塾 剛柔流とは(東魁塾)
空手の流派の違いを徹底解説! 空手歴23年、空手を愛する筆者が空手の流派の違いを分かりやすく解説します。 |(子供のための空手道場検索サイト.)