スポーツマネジメント「世界一」のオハイオ大学。日本人留学生がつかんだNBA勤務と、その後のキャリアに活きたこと

スポーツ業界を目指す人にとって、スポーツマネジメントを海外大学院で学ぶのはキャリアのひとつの選択肢になる。その歴史は1966年に米オハイオ大学が世界で初めてスポーツ経営学の修士コースを開設したことにさかのぼり、同大は今でも世界一の評判を得ている。大学の卒業生のひとり、株式会社 Cheer Blossom代表取締役で、一般社団法人Sport For Smile代表理事も務める梶川三枝さんに「スポーツビジネスを海外で学ぶ価値」について聞いた。(聞き手はHALF TIME編集部 横井良昭)

「NBAでの経験を日本に持ち帰りたかった」

梶川三枝さんは大学卒業後、旅行会社や国際会議運営会社、外資金融企業などに勤務後、2003年にオハイオ大学大学院スポーツアドミニストレーション学科に留学。修士号を取る傍ら、NBAデトロイト・ピストンズのインターンとしても経験を積んだ。

――まず、オハイオ大学の大学院について教えてください。

アメリカ・オハイオ州のアセンズにあるオハイオ大学は、世界で初めてのスポーツビジネスコースを大学院で開設した大学です。卒業生には全米のスポーツ界の重鎮が多くいます。就職率も非常に良く、世界から注目され始めていますね。留学当時の2003年は、日本人は30名ほどのクラスに2名だけでしたが、留学生という貴重な立場でさまざまな経験をすることができました。

――オハイオ大学を目指したきっかけは。

私は中学、高校、大学とバスケ部で、昔からNBAに対して憧れがありました。でもまさか自分がそこで働くことまでは考えておらず普通のOLをしていたのですが、偶然友人の母親がオハイオ大学に留学していて、「オハイオ大学のスポーツビジネス(コース)はすごい、ここに入ればNBAで働ける可能性があるよ」と聞いて。

ちょうどその頃、サッカーに比べて競技人口もそれほど劣らないバスケが、ビジネスとして成立していない国内の現状を疑問に思っていたこともありました。そこで、私がNBAで学び、それを日本に伝えられたら日本バスケ界の発展に寄与できるかもしれないと考え始めたんです。実際に下見に行って、教授に「日本でのバスケットボールのプロリーグ発展のために、NBAで働きたいんです」と相談すると、「ぜひ来てください」と。そう言われて受験を決めました。

ですので、大学院で修士号を取ることより、そこの大学院に行けば自身の夢であるNBAに近づくという考えから選択した行動でした。その意味で、卒業生の多くが米国スポーツビジネス界のリーダーとなっているオハイオ大学は魅力的でした。

――もともと、スポーツビジネスについて学ぼうと考えていたのでしょうか。

私はバスケを通して友人や学びの機会を得て人生の糧となったので、もともとバスケ界に何か貢献したいという気持ちがあったんですが、当時のバスケ界は分裂状態(※)で、さらにマネジメントも機能していないのを見たときに、何か役に立てないかなと思ったんです。NBAは世界で一番の成功を収めているロールモデルだと思ったので、そこに私が学びに行って、日本のバスケ界の発展につながればと思ったんですよね。バスケに恩返しする方法を見つけたという感じです。

(※Bリーグが開幕する以前、2005年から2015年の間はJBLとbjリーグの2つのトップリーグが並立する状態となり、国際バスケットボール連盟が統一リーグを求める事態に至っていた)

大学院ではマーケティングやガバナンス、スポーツ法などを学びました。授業はレクチャーはあまりなくて、学生がプレゼンをして学び合うというスタイルが多かったのが驚きでしたね。当時はスポーツビジネスという専攻さえ日本ではまだなかったので、スポーツをビジネスの切り口から学ぶことができたのは大きなメリットでした。

アメリカは「ドアを叩けば開かれる」

オハイオ大のスポーツ経営学修士コースは、スポーツ界で働く卒業生を多く輩出している

――課外活動にも積極的だったようですね。

私は授業に参加するのは「最低限やらないといけないこと」で、それ以外に何をやるかが勝負だと思っていました。日本で10年働いてから留学したので、学生としての可能性を理解していましたし、その立場を最大限に活用したいと考えたんです。

具体的には、プロチームやグローバルスポーツ関連企業の重鎮になっている卒業生にアポを取ったり、時には交渉してNBAのイベントに参加させて頂いたりして、とにかく現場のリーダーからリアルなお話を聞くことを心がけていました。

毎回極度の緊張に耐えながら面会などを先輩や関係者にメールなどで依頼するのですが、日本にいたら絶対にたどり着けないような有名イベントでの貴重な機会をたくさんいただきました。志を持ち努力を続けている若者に、世界のリーダーが時間や機会を提供してくれることを、この上ない喜びとともに実体験できたのも貴重な経験でしたね。

他には、大学の男女バスケットボール部でもお手伝いをしていました。スコアを付けたり、荷物を運んだりという程度でしたが、ある日、私がNBAを目指しているということを知ったヘッドコーチが、私のことをNBAのご友人に紹介してくださったりもしました。

最初はひとりでアスレティック部を訪問し志願したお手伝いでしたが、「まずは動いてみる」というのがいかに大切か学びました。アメリカって「ドアを叩けば開かれる」という感覚があって、「私でいいのかしら」とかあまり考えてなくていいんですよ。なので、すべては直撃です(笑)。

――主体的に動くことが重要と。

大学院のコースでは3ヶ月間以上のインターンが卒業に必須だったのですが、当時優勝チームだったデトロイト・ピストンズで半年間、コミュニティ・リレーションズ(社会的責任)部門のイベントや表彰式、サインアイテムの準備など幅広い業務を担当していました。NBAに限定してインターン先を探し、先輩の紹介のないクラブにも直接応募したり、面接のために片道7時間直線ドライブもしながら(笑)、かなり苦労して2つのクラブからオファーを頂き、最終的に教授から推薦をいただいていたピストンズに決めました。

留学当初は「日本でどうプロバスケを実現させるか」という発想しかなくて、協賛や売上のデータなど、経営の数字しか見ていなかったんですが、だんだんコミュニティリレーションズに興味を持つようになりました。もともとボランティア活動をやったりと社会貢献には興味があったんですけど、アメリカでスポーツチームが社会貢献を積極的にやっているのを見て、その道に行きたいと思い始めました。

当時のオハイオ大は卒業したらスポンサーシップ部門に就職する人が多い中で、クラスメイトからは変わってるねという目で見られていたと思います(笑)。

「スポーツの社会的責任」を探求していく

――留学後のキャリアについて教えてください。

卒業してからもニューヨークに1年くらいいて、コーポレートファイナンスや投資を学び、日系企業でも働いたのちに、世界バスケットボール選手権のタイミングに合わせて帰国しました。帰国直後にNBAの関係者から「手伝ってほしい」という連絡が来て、USチーム関係者の緊急対応や案内などをするお付き人をしましたね。それはあくまで、留学のお礼の気持ちとしてボランティアで。

当時は、「帰国したら、バスケのリーグは統合してるのかな」くらいに思ってたんですよ。でもそれは妄想で…。待てど暮らせど統合されないので、2016年に東京オリンピックの招致委員会に入り、その後起業をしました。ある意味「待ちくたびれ起業」ですが(笑)、やりたいことが明確だったので、当時の状況からはベストな選択だったと思っています。翌年には、その「スポーツの社会的責任」のコンサルティングで女性起業家としての賞をいただき、モナコの世界大会にも特別枠でご招待いただきました。

――現在は、スポーツの「社会的価値」に着目して、社会的責任活動の普及に挑戦されています。

B.LEAGUE Hopeの設計を担当させていただいた後、Bリーグクラブも4つほど設計と導入サポートをさせていただいています。アメリカで学んでいたスポーツビジネスの知識や経験をほぼそのまま活かせています。留学に行ってなかったら、今の仕事には就いていないと思いますから、万事塞翁が馬。留学で無駄なことはなかったですね。

プロジェクトでぱっとアイデアの企画やフレームワークが浮かぶというのは、留学や国内外のスポーツ社会変革コミュニティでの活動での経験が活きていると思いますし、現場でこういう状況だとやるべきプロジェクトはこれだとか、その時どんなリスクやベネフィットがあるのかという点を想定し説明する際に大いに役立っています。留学をきっかけに様々な現場に触れる機会があったからこそ、このようなスキルや判断力が得られたのだと思います。

――留学で得られたスキルや経験は色あせないということですね。

トップリーダーや一流の方々との交流から、コミュニケーションスキルや交渉力を身をもって学んだことも大きいです。アメリカは、自分を売るスキルがないと無能と見なされる国。「謙遜は美徳」という日本とは違います。

あとこれは人生全体に言えることだと思いますが、「ダメもとでも頑張る力」が付きましたね。目標に向かってあらゆる努力をしてきましたから。オハイオ大学の世界一の強みは、そのネットワークで、「ダメもと」の挑戦が実現することも多かったのですが、その恩恵にあずかりつつも、新たな挑戦をする「勇気」をいただけたことが、私が留学を通して得られた最大の宝物です。

また、トップリーダーと直接交流できる機会から、一般メディアで掲載されないような情報や感覚にも触れることができたことも大変有意義でした。現在は、卒業生アドバイザリーボードの委員も務めさせていただいていますが、よい恩返しができるよう尽力したいと思っています。

留学前は自分でも、「30代でいきなりスポーツビジネス?」と思いましたよ。でもアメリカに行って、本当に良かったです。海外留学は合格さえすれば学生になれますが、そこが本当のスタート。自分で機会を作りより充実した学びと体験を得るために、自分からどんどん動けたのが良かったのだと思います。またそうするための勇気を周りの多くの方々がくださったことが本当に幸運だったと思います。

――海外でスポーツビジネスを学ぼうという人は多くいらっしゃると思います。アドバイスはありますか。

大学院は目的とビジョンを持つことが大切。それなりの学費や生活費がかかるので、どういった目的で自分は行くのか。それはなぜか(Why you?)。その専門分野で自分は成果を出せるのか。これを自分で考え整理し、判断することが一番重要です。

なぜこれが大事なのかというと、うまくいかないことは必ずあるからです。でも、目的とビジョンがしっかりとあれば、アプローチをいくらでも変えて成果を得ることができる。「なんとなくスポーツビジネスを学びたい」という感じだと迷走するかもしれませんね。気負わずに行くというのも大切ですが、自分の軸を持つことができれば、より成果が得られやすいのではないかと思います。

何より、大学院に行けることは恵まれていることです。ですので卒業したら社会全体に貢献してほしい。自分のためだけではなく、昨今のSDGs的な発想で、社会全体に事業をひろげていっていただけると嬉しいですね。

◇梶川 三枝(かじかわ・みえ)

株式会社 Cheer Blossom 代表取締役、一般社団法人 Sport For Smile 代表理事、一般社団法人 Next Big Pivot 代表理事

名古屋大学文学部哲学科卒。旅行会社、パリ語学留学、長野オリンピック通訳、国際会議運営会社、外資系金融等を経て、オハイオ大学大学院スポーツ経営学科留学、NBAデトロイト・ピストンズに日本人女性初のNBAインターンとして採用され、スポーツ経営学修士号取得。帰国後、米系コンサルティング会社を経て、2016年東京オリンピック招致活動に従事。

2010年に株式会社 Cheer Blossomを設立し、スポーツの社会的責任に関するコンサルティング・サービスを提供。「B.LEAGUE Hope」の立ち上げに関わりグランドデザインを企画提案し、千葉ジェッツ、名古屋ダイヤモンドドルフィンズ、アルバルク東京、群馬クレインサンダーズの社会的責任イニシアチブ設計導入もサポート。また、非営利活動としてスポーツ社会変革プラットフォーム「Sport For Smile」や、スポーツビジネス界での女性活躍等を推進する 「Next Big Pivot」に関わるプロジェクト企画運営にも従事している。