「NBA公認」世界のアスリートを描く“気鋭のイラストアーティスト”の「道なき道を切り拓く原動力」

イラストアーティストの田村大氏は、バスケットボールやサッカー、野球、テニス、格闘技などあらゆるスポーツのアスリートを描いてきた。彼は選手が一番エネルギーを出す瞬間を描いていて、その躍動感あふれる作品は世界中から注目されている。そんな田村氏がデザインの勉強を始めたのは大学在学中から。

学生時代はバスケットボールに青春をささげてきたという。人より遅いスタートの中で、デザインやイラストを学んで技術を習得し、似顔絵の世界大会であるISCAカリカチュア世界大会において総合優勝。さらに誰も挑戦しなかった方法でNBA公認イラストレーターとなった。決められたレールを走るのではなく、自ら道を切り拓いてきた田村氏のこれまでの経験、そして夢をかなえる秘訣について語ってもらった。(初出=NESTBOWL

田村 大さん
DT合同会社 代表・イラストアーティスト 
2016年に似顔絵の世界大会であるISCAカリカチュア世界大会において総合優勝した後に独立。躍動感あふれるスタイルを最も得意とし、著名人からも高い評価を受けている。Instagramアカウントのフォロワーは20万人を越え、NBAからの密着取材やNHKやTBSでも取り上げられるなど注目度も高まっている。アートの分野でも、新たな挑戦を続けながら着実に実績を積んでいる。

堀 弘人さん
H-7HOUSE合同会社 CEO・ブランドコンサルタント
​​1979年 埼玉県生まれ。米系広告代理店でキャリアをスタートし、アディダス、リーバイス、ナイキ、LVMHなど数々の外資系ブランドにてマーケティングディレクターを含む要職を歴任したのち、楽天の国際部門にて戦略プロジェクトリーダーとして活躍。20年以上に及ぶ自身のブランドビジネス経験を国内外企業の活性に役立てたいとブランドコンサルティング会社H-7HOUSEを設立。NESTBOWLをはじめとして様々な企業、政府系機関、ベンチャーなどのブランド戦略構築に幅広く参画している。

人より遅いスタート、それでも絵の道を諦められなかった

――田村さんは大学の経済学部に通われている時に、デザイン系専門学校に行くことを決められたそうですね。まったく別の道を志したきっかけについてお伺いできますか?

私はずっと絵が好きだったのですが、学生時代はバスケットボールをやっていました。全国大会に行くレベルの学校だったので美術部に入るという選択肢がなく、授業中に絵を描いていたんです。でも大学3年になった時に、“やりたくない仕事の合間にまた絵を描くのか”と思ったら、なんだか嫌になってしまって。それならば他の人よりスタートは遅いけれど、美術の分野に飛び込んでみようと考え、同級生が就職活動を始めるタイミングで初めて美術の道を志しました。

ただ、それはとても勇気がいることでした。親戚が通っていた桑沢デザイン研究所を受験し、デザインの勉強をして。バスケットボール専門のデザイン会社から「バスケットボールとデザインをやっている人は珍しいから」と声をかけてもらい、就職したんです。

――就職されてから、どんなお仕事を担当していたのでしょうか?

朝から晩まで何十個もロゴを作っていました。しかし1年経ったある時、私がユニフォームのデザインをした母校バスケ部の男女キャプテンが『月刊バスケットボール』の表紙に掲載されて。その時に、「これ以上、この業界でやれることはあるのかな?」と、やり切った感じがしました。

その頃、今のBリーグの前身のbjリーグで優勝したチームの似顔絵を描く機会があったんです。見様見真似でやってみたところ、周囲からの評判は良かったのですが、自分としてはまったくうまく描けた感じがしなくて。それで似顔絵のプロ養成コースのホームページを見つけ、2年目からは土曜日に自費で教室へ通うようになりました。当時は日曜日にその教室の課題をやって、平日は普通に夜遅くまで働くという生活を送っていて。そして最初に絵の競技会に出た時、2位だったんですよ。本当に悔しかったですね。似顔絵を専門的に勉強して、いつかその技術で食べていきたいと考え、似顔絵の会社に入社したんです。

――ここまでお話を伺っていて、田村さんは負けず嫌いでいらっしゃるのかな?と思ったのですが。

とんでもなく負けず嫌いです(笑)。やはりスポーツの世界にいたのが大きいですね。自分との闘いで、“できないことが、できるようになりたい。今できないのは、まだやっていないからだ。だからみんなと同じところに飛び込んで学ぼう”という思いがずっとありました。

大学3年の時にデザインの専門学校に合格。バスケットボールは最後までやると決めていたため、部活とアルバイト、そして大学と並行して予備校に通うというかなりハードな生活を送っていたという。

世界一になれた要因は、綿密な計画と遂行力

――似顔絵の世界に入られて、2016年に大きな転機が訪れたそうですね。

似顔絵の会社に入った時に決めていたのが、「絶対に3年以内に世界大会に出る」ということだったんですよ。毎年、アメリカで世界大会が行われていて、社内では100人くらいいるイラストレーターの中で、4、5人しか参加することができないんです。

会社の経費で行くので、ある程度の役職についてポジションを築いておかなければいけないし、毎月行われる社内コンテストでも優勝しなければいけない。技術と業務面である程度の位置に行かなくてはならないので、3年間ひたすら頑張りました。エリアマネージャーになり、コンテストも優勝して。目標通り、3年目で初出場することができました。

その時は満を持して行ったんですけれど、現実は甘くなくて。世界中から男女、国籍、年齢問わず300人ほどが集まった中で、ギリギリ10位だったんです。悔しくて、表彰式の次の日は涙が止まらなかったです。その時に、以前、自分の会社の先輩が最短で3回目に出場した時に優勝していたことを思い出し、「絶対、3回で優勝する」と誓いました。

次の年は選ばれず、2015年は4位。「今の自分を超えることができれば、来年はベスト3に入る。だから今年は世界で一番絵を描く一年間にしよう」と決めて。年間4千人ほど描いて、帰って夜中の2時までに一枚作品を仕上げる、という毎日を過ごしましたね。その結果、2016年の11月にアリゾナ州フェニックスの大会で、やっと優勝することができました。

――ご自身が世界一になれた要因は何だと思われますか?

ものすごく綿密な戦略を立てていきました。以前の大会の傾向も分析し、「この年はこういうキャラクタータッチが優勝していた」「この年は誇張が強い作品が好まれていた」「この流れで行くと、今年は誇張系が強いな?」とか。

それから3日半の大会だったので、70数時間が与えられるのですが、この期間は外出しても寝ても自由にしていいんです。その代わり、最後は壁に絵を貼って、皆で作品に投票する。だからその72時間で何時間寝るか、描く絵にはそれぞれ何時間かけるか、を考え抜いていって。“この10か条を守ったら絶対に勝てる”ことをリストアップし、戦略通りに行動していきました。

――アーティストというよりは、アスリートですよね。

まさに、考え方としてはアスリートですね(笑)。

――アーティストの方は右脳的な発想の方が多いのかな、と思うのですが、田村さんは左脳的な考え方もされますよね。緻密で数字を分析し、戦略を論理的に考えていらっしゃる。非常にバランスがいいと感じました。

私はバスケットボールではポイントガードをやっていたので、その影響も大きいと思います。ポイントガードは誰を主役にたてるか、誰を活かすかといったことを試合中、常に考えるので。あと高校以外はキャプテンもやっていたんです。間に挟まれたときにどちらも見なくてはいけない、というバランスを取ったりしていたのでその経験が生きていると思います。

ただ、アメリカから戻って通常の業務に入ると、その大会を知らない人も多く、世界一になろうが自分の価値は変わらなかった。それで次の年に会社を飛び出して、“この世界一の技術をもって、自分自身で勝負しよう”と考え、2018年に独立することを決心しました。

「NBAと契約する」誰も挑戦しなかった目標を達成

――現在はどういった活動をされていますか?

2018年1月にフリーランスになって、最初にNBA(全米バスケットボール協会)と契約するという、まったく先の見えない目標を立てたんです。私の周りでまだ誰もやっていないし、アメリカ人の関係者に、「どうやったらできる?」と聞いても、「分からないよ」と言われてしまって。

毎日小さい紙にイラストを描いていたのですが、これからはInstagramが戦闘力になって、フォロワー数でその人の実力を測る時代が来るのではないか、と少し早めに感じて。毎日Instagramに投稿してはタグ付けして、それが誰かにシェアされていくことで、フォロワーを増やしていきました。そんな時、楽天さんがNBAとオフィシャル契約を結び、5年間の独占放映権を獲得したことを知りました。

――2018〜19年くらいですかね。

そうですね。日本でNBAの仕事をするには、楽天さんとつながらなければいけない。なぜNBAの実績が欲しいかというと、日本だと何の実績もないと相手にされないんです。 “NBAに認められた田村大”という実績をもって、日本でより大きな仕事をしようと決めていました。

楽天さんとどうやってつながればいいかと考えて調べたら、楽天グループのトップである三木谷浩史さんのお誕生日が3月だったので、NBAのコミッショナーであるアダム・シルバーとの2ショットを描いてInstagramでタグ付けしたら、喜んでいただけるのではないかと勝手に思って。

絵をポストしたところ、三木谷さんが私のInstagramのアカウントをフォローしてくださったんですよ。おそらくNBAの絵を毎日描いてInstagramに掲載しているのをご覧になってくださったからだと思うのですが。フォローしてくださるとDMを送ることができるようになるので、すかさず私の夢を書いてDMを送ったんです。そうしたらNBAの担当部署につないでくださって、5月からNBAの仕事がスタートしました。

楽天さんとつながるには、「誰か楽天で働いている人はいませんか?」といったように、おそらく周りの人から探すと思うんです。ただ、そうすると大きな会社だから時間がかかってしまってたどり着くことができないので、トップにアプローチする方がいいと考えて。

そういうことをやる人が当時はいなかったですし、Instagramもまだマーケティングツールとして活用している人が少ない頃だったので、三木谷さんも珍しいと思われたのでしょうね。お会いしたことはないのですが、私にとっての恩人です。

楽天の三木谷浩史氏の誕生日に、NBAの第5代コミッショナーであるアダム・シルバー氏との2ショットイラストをInstagramで公開したのが転機となった。

――田村さんはご自身が描いた選手に対し、どんなビッグネームであっても直接会いに行かれているんですよね。どういうきっかけで、直接対面をするようになられたのですか?

独立してから価格を一気に上げたんです。でも金額を上げただけだと、「なぜこれがこの値段なのか?」という人も出てくるかもしれない。そのため目に見える別の価値に置き換えたら、自然と「この人はすごい人なんじゃないか」と思ってもらえると考えたんです。

そこで「この絵は世界的なアスリートが時間を割いて会ってくれる絵なんだ」と認識されることが大事だと考えて。ステフィン・カリー選手(NBA選手)が来日した時にも会いに行ったのですが、「カリーと2ショットを撮るということは、カリーの5分に匹敵する価値の絵なんだな」と見た人が連想して、「きっと高いんだろうな」と思ってもらえるのではないか、と考えたんです。

それで最初の頃はあらゆるアスリートに、「1分でもいいから会わせてください」とこちらからお願いして。それを積み重ねていったところ、自然に相手から声がかかるようになっていったんです。

悲しい出来事をアートの力で癒せたことが最大の思い出

――これまで特に心に残った作品について教えてください。

私のInstagramのフォロワーの中にシャキール・オニール(アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。NBAの歴代最高のセンターの一人)のマネージャーの方が、実はいらしたんです。その人が「シャック(シャキール・オニールの愛称)のマネージャーをやっているんだけれど、前に描いた絵のデータを送ってもらえれば、本人にポストさせるよ」と連絡をくれて。

最初は「本物かな?」と思いながらも、信じてみようと思ってデータを送ったところ、本当にポストしてくれたんです。そうしたら1日で1万人フォロワーが増えたんですよね。

――さすがシャック。すごい影響力ですね。

そこから時間がたってから、コービー・ブライアント(アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。シャキール・オニールとともにレイカーズをファイナル3連覇に導いた)が2020年にヘリコプター墜落事故によって亡くなってしまって。その時に、何かできないかなと思い、コービーの絵を描いてポストしたらファンの方から反響があって。

“ずっと相棒だったシャックとコービーの絵を描いて、シャック本人に渡したいな”と思ったんです。マネージャーに連絡したところ、「データを送ってくれたら、本人が今度アップデートするよ」と言ってくれたので、急いで描いてデータを送ったら、プリントアウトしてシャックが笑顔でその絵を持ってくれたんですよ。一瞬かもしれないですけれど、悲しい事故の後に、アートで悲しみに暮れる人たちを笑顔にできたことがうれしかったです。

――すばらしいお話ですね。そして田村さんはカシオ、森永製菓、TDK、西川といった企業とのコラボレーションも増えてきています。この前はイタリアのFENDIとのコラボレーションを展開されていましたが、どういった形でオファーがあったのでしょうか?

もともとFENDIの今の日本の社長がマークジェイコブスにいらっしゃる頃に、あるお食事会でご紹介いただいて。今回、FENDIが主催するプロジェクトで表参道をアートで彩ろうというプロジェクトが立ち上がった時、すぐに私の顔を思い浮かべてくださったようでして。これは3人のアーティストでつなぐというプロジェクトなのですが、その第一弾を任せていただくことになりました(「TSUNAGU – 表参道 ストリート アート プロジェクト – (TSUNAGU – Omotesando Street Art Project –)」。

動物か植物をモチーフとして、テーマは希望でつないでいきたい、というご要望をいただいたので、プロデューサーの方とも話して、絶滅危惧種たちがノアの方舟に乗り込んで希望の入り口に向かい、その中から、希望という花言葉が飛び出すという内容で作ろうと決めました。この作品は私の周りでも評判が良かったんですけど、先日FENDIからも「評価がよかった」とおっしゃっていただいて、ほっとしました。

「TSUNAGU – 表参道 ストリート アート プロジェクト – (TSUNAGU – Omotesando Street Art Project –)」
※参照元:フェンディ・ジャパン株式会社 プレスリリース

――作品を手掛けるうえで、大切にしていることは何でしょうか?

デザインをやっていたころに聞いたのですが、好きな話があって。世界的にベストセラーになった絵本が、実はある母親が自分の息子のために書いた本で、それが多くの共感を生んだということを聞いた時に、真理だなと思って。最初から多くの人に伝えようとすると、メッセージが薄まるんです。私の場合は必ず対象がいます。“この方に喜んでもらいたい”という気持ちで描いていますね。

過去にすがらない。今の絵が最新で最高なもの

――キャリアを成功させるためのアドバイスをいただけますか?

もし私が成功していると捉えていただけるのであれば、ひとつは環境を変えてきたことだと思います。例えば小学校の時にいじめだったりとか、学校の中で合わないなといったことがあったとしても、別にそこだけの世界ではないので。自分を認めてくれたり能力を伸ばせる環境は必ずあると思います。なるべく環境を変えていってステップアップしていくのがひとつの秘訣かなと。

もうひとつは自己ベストを更新し続ける。少しアスリート寄りの考えなんですけれど、私の場合は少しでもチャレンジして描けなかった絵が描けるようになったり、試したことのない技法を試してみて絵を上達させていきました。皆さんがご自身の過去を振り返った時に「あの時はちょっと未熟だったな」とか、「失敗してしまった」ということを後悔する方もいると思うんですけれど、その時それはベストだと思って選択したはずなんです。

私も“これが今描ける一番いい絵だ”と思って描いたものが、振り返ってみるとあまりうまくなかったなと感じることはもちろんあります。でもそれを悔やむのではなく、その時に気づけなかったことに気づくことができる人に成長している証だと捉える。そして環境を変えていく。そういうふうに進んで行けば、自分の理想に少しでも近づけていくのではないかと考えています。

――逆に、例えば5年前の絵のタッチが好きだったな、と振り返ることはありますか?

周りからそう言われることはありますね。ただ世界大会で優勝した時は、カリカチュアという人物の特徴を際立たせるために誇張する絵の分野だったのですが、スタイルを変える時に世界大会の優勝トロフィーも捨てたんですよ。私はそれが欲しくて頑張ったんですけれど、もうこの絵を描くことはないな、と思って。なぜならNBAといった相手先とオフィシャルな仕事をする時は、もっとそれぞれの個性に迫って描いていかないといけないから、誇張は絶対にしてはいけないと感じたんです。

だから「目的に合わせてスタイルを変えているので、ありがたいんですけれど、このタッチは過去の自分の絵だから、今は描けません。今の絵が最新で最高なので、これをぜひ描かせてください」と伝えています。

田村大氏の初の作品集。彼がチャレンジを続けながら魂を込めて描いてきた多種多様な作品が、230点以上掲載されている

――なるほど。でも自己ベストを更新し続けるのは、本当に苦しく大変なことであると思うのですが、なぜそのモチベーションを維持できるのでしょうか?

絵を描くことが目的になっていないからだと思います。私の一番の目的は、絵を描くことを通して、いろいろな人に出会いたいんですよ。もしもバスケットボールをずっとやっていたら、おそらく富樫勇樹選手など今の日本代表クラスの選手に会える機会はなかったでしょう。

本当に素敵な方がたくさんいるんですよ。その人たちに出会いたいという目的を叶える手段として絵を描いているので。自分の技術がさらに良くなれば、もっといろいろな人に出会えて、自らの価値も高めていけるんじゃないかと。

だから先の未来を想像して、毎日戦っています。それがなくてただ辛いだけなら、辞めたくなると思います。だから目の前のことだけではなく、もっと先に目的を設定するとつらいことも乗り越えられるのではないでしょうか。

――今後の目標を教えてください。

「世界を代表するアーティストになる」のが私のゴールです。世界ではKAWSやバンクシーがいたりしますけれど、その中で並ぶようになりたいんです。それはすぐに実現できることではないから、どうやったら近づけるかを、日々考えるようにしています。

たとえば中国だったりアメリカだったりに対してもっと戦略を練って接触していったら、その目標に近づけるのではないかな、と考えています。これまで多くの日本の方々にお世話になって獲得した実績を持って、海外で勝負していきたいですね。

学生時代はバスケットボールをしていた田村氏。現在も走るなどして体を鍛えている。「スポーツ選手と並んで写真撮影されるので、自分もある程度トレーニングしていないと、バランスが悪いんです」と語る。

(文:キャベトンコ、撮影:Takuma Funaba